九四 (慶長五年)八月廿五日 有吉立行・松井康之連署状

 丹後宮津城主細川忠興の家臣で、忠興が豊後にもつ飛地・木付六万石を木付城(現、大分県杵築市)で管していた有吉立行・松井康之が中川秀成に宛てた書状。慶長五年(一六〇〇)八月二五日付で、大坂を同一八日に船で出発した者が、当夜到着して伝えてきたという情報を記す。上方の軍事情勢が詳しく報じられている。
 まず南伊勢では、大坂方奉行の長束正家が軍勢を率いて侵攻し、阿野津(現、三重県津市)・松坂(現、三重県松阪市)・岩手(出)(現、三重県度会郡玉城町岩出)の三城を引き渡すよう使いを送ったが、三城の城主で家康の会津上杉討伐軍に加わっていた富田信高・古田重勝・稲葉道通が、関東から引き返して船七〇艘で着岸して各々の城に入り、同じく会津討伐に従軍していた伊賀上野城主筒井定次も帰国した。そのため、(長束は)関地蔵(現、三重県鈴鹿郡関町・木崎町・新庄町)へ退いた、とある。ここでは、大坂の三奉行が七月二六日に秀成にあてた書状(八九号文書)が伝えた、津(阿野津)・松坂・岩手(出)三城ともに大坂方が軍勢を入れた、というのとはかなり異なる情勢が伝えられている。こののち、富田信高の籠もる阿野津城は八月二四日から大坂方の攻撃をうけたこと、また古田重勝は和を申し出て時をかせぎ、関ヶ原合戦当日まで持ちこたえたことなどが知られるから、より正確な情報は本状のものであることが確認できる。なお、ここには名が挙がっていないが、富田ら三人とともに会津討伐の途上から伊勢に帰国した徳川方の大名として、分部光嘉(上野城主)がいる。
 また北陸では、大坂方の大谷刑部が堀尾吉晴の居城・越前府中城(現、福井県武生市)を攻めたが、留守居の守りが堅いので兵を配置して北庄(現、福井市)へ進み、そこに陣を構えた。そして丹後では、細川藤孝が息子・忠興の援軍を受けつつ田辺城(現、京都府舞鶴市)を堅固に守っている模様を伝え、大坂の奉行衆が策を案じて朝廷に申し入れ、勅使によって開城を申し入れたが一切応じていない、と記している。ここには勅使とあるが、これは、八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)が大坂方からの働きかけも受けて調停に乗り出し、七月二七日には家臣大石甚助を遣わして、幽斎に講和の上退城するよう説得したことを指すかと思われる。当代随一の文人でもあり、公家文化の精華とも言うべき古今伝授の秘伝を継承していた幽斎の安否は、朝廷や公家社会においても大きな注目・懸念の的となっていたのである。親王自身、幽斎から歌学の伝授を授けられていたことが知られている。しかし、本状も記すように、幽斎はこの講和仲介を謝絶、使者の大石に託して古今集証明状を親王に贈り、源氏抄と二一代和歌集を朝廷に献じる処置を取った後、籠城抗戦を続けたのであった。なお、本状の使いが大坂を出たあとの八月二一日にも、親王は再度講和調停を試みている(これも失敗)。
 なお、本状の追而書には家康が北伊勢に出撃すると聞いて大坂方があわてふためいて籠城の用意をしている、と記されている。これに関わっては、上に見た長束正家の南伊勢攻略で椋本(現、三重県安芸郡芸濃町椋本)まで至った時、家康が会津討伐から反転して急ぎ西上したという噂が流れ、そこに富田らの船団が現れたために長束軍は家康が到着したと勘違いし、周章狼狽して逃げ去った、という話も伝わっている。大坂方が家康をいかに恐れていたかがよくわかり、たいへん面白い。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)