九五 (慶長五年)九月十日 有吉立行・松井康之連署状

 九四号文書と同じく、丹後宮津城主細川家の飛地・木付六万石(現、大分県杵築市)の留守を預かる有吉立行・松井康之から中川秀成に宛てた書状。冒頭の文言から、秀成が小林新介に託して送った書状の返答であることがわかる。慶長五年(一六〇〇)九月一〇日付け。なお、小林新介(新助とも)は、知行高三〇〇石の秀成の中級家臣である。
 有吉・松井はまず、秀成が上方の情勢を知らせてくれたことの礼を述べる。「高田(現、大分県豊後高田市)へも一昨日下着の者、同前の申し様にて御座候」とあって、彼らが複数のルートから情報を入手し、その比較・吟味を行っていることが窺える。
 続いて、大友吉統の下向の情報について礼を述べている。大友吉統はもと豊後四〇万石の領主であったが、第一次朝鮮侵略(文禄の役)出兵中の文禄二年(一五九三)五月、この年正月の平壌の戦いでの守城放棄・退却や天正一四年(一五八六)の薩豊戦争時の豊前敗走などを理由に秀吉から改易された(五九号文書解題参照)。改易後は毛利輝元、ついで佐竹義宣の監視下に置かれたが、慶長三年八月の秀吉死後に赦免され、同五年四月には豊臣五奉行の一人、増田長盛から大坂天満に屋敷を与えられた。そしてこの度の大坂方の挙兵にあたって、これと結んで豊後を奪回すべく、諸浪人を召し抱えて下国、本状の出された前日の九月九日に、速見郡別府浜脇浦(現、大分県別府市)に上陸したのである。ただこの吉統については、有吉らは肥後熊本の加藤清正および豊前中津(現、大分県中津市)の黒田孝高(如水)との情報交換を通じて、出坂した八月末時点でその動向を詳細に把握、木付城を攻めることも予測しており、その折りには加藤・黒田から援軍を送ってもらうことも申し合わせていた。本状でも有吉らは、(吉統が)昨日豊後へ船で侵攻してきた、「一揆頼」であるので軽率に軍勢を出すことは無用、様子を見極め報告せよと如水(黒田孝高)から言われている、示し合わせて討ち果たすつもりだ、と述べており、こうした協力の模様が確認出来る。なお、黒田のいう「一揆」とは、秀成領内にも多数存在した大友氏旧臣の国人・土豪を中心とした一揆を指していよう(六一号文書・九一号文書解題参照)。実際、この吉統の豊後侵攻にあたって、各地に散っていた多数の大友旧臣の国人たちが参加している。
 そして最後に有吉らは、「両人」の申分については、こちらにも直接申して来たので、所存は口頭で率直に申し上げた。とにかく覚悟の上であるので、その旨ご承知の上御返事下さい、と結んでいる。この「両人」とは、吉統旧臣で、秀成の豊後入部の際、秀吉から与力として付された田原紹忍・宗像掃部と考えられる(六〇号文書解題参照)。両者はこれ以前、大坂方の挙兵にあたって、加藤清正のもとに家康方として協力したいと起請文をもって申し入れ、その旨を有吉・松井にも報じていることが知られる(『加藤清正伝』)。ところが、この度の吉統の豊後侵攻に際してその誓約を反故にし、吉統のもとに加わったのである(九六号文書解題参照)。有吉らの発言は、これに関わるものであろう。秀成は九月一六日付の有吉・松井あて書状で、田原・宗像の両人の吉統与同について弁明しており(「松井家文庫所蔵古文書」四四九号、『黒田家文書』二一八号の注による)、これがあるいは本状の返答にあたるのかもしれない。いずれにせよ、「与力」の二人が、大坂方の挙兵を受けた緊迫した政治情勢の中で、主君である秀成とは全く独自に周囲の大名たちと交渉を持っていることがわかり、大変興味深い。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)