九七 慶長五年九月十九日 中川秀成軍法

 慶長五年(一六〇〇)九月一九日付けで、中川秀成が出した軍法五ヶ条。第一条では秀成の指示なく行動することの禁止、第二条では戦場での「かけひき」、すなわち前進・後退については番頭や組頭の指示に従うこと、第三条ではまはらかけ(疎懸、軍兵が統制なく勝手に戦うこと)やおいつけくび(追付首、逃げていく敵に、後ろから追いついて切り取った首)は手柄とせぬこと、第四条では敵陣を破って追い散らす際の限度の設定を挙げ、そして第五条で、合戦については秀成が見とどけ、番頭と協議の上指示するので、一切他からの関与を禁止する、と厳命している。
 この年七月の大坂方の挙兵のあと、九州の地も軍事衝突こそないものの、やはり厳しい政治的・軍事的緊張のもとにあった。そして関ヶ原での東西激突を六日後に控えた九月九日、かつての豊後太守・大友吉統が、旧領回復を目指して大坂方(西軍)と結び、兵を率いて豊後国速見郡別府浜脇浦(現、大分県別府市)に上陸、同郡立石村(同)に布陣して翌一〇日には丹後宮津城主細川家の城代有吉知行・松井康之の守る木付城(現、大分県杵築市)攻めに着手する、という事態が発生した。この時居城・岡城(現、大分県竹田市)にあった秀成自身は徳川方(東軍)であったが、秀成に与力として付属されていた吉統旧臣の田原紹忍・宗像掃部がこれに合流し、あまつさえ彼らは、中川氏の旗指物を偽作して秀成が吉統に同心する旨の流言を流した。これを知った隣国・豊前中津(現、大分県中津市)の黒田孝高(如水)は、秀成が吉統に一味した旨家康に報じ、かくして秀成は窮地に陥いることになったのである。
 吉統軍は九月一三日に有吉・松井軍と如水派遣の援軍の連合軍に立石・石垣原(現、大分県別府市)合戦で敗れ、一五日未明に投降(なお、宗像掃部はこの時戦死)。これを受けて秀成は、身の嫌疑を晴らすべく、一五日には肥後熊本の加藤清正、一六日には有吉・松井に弁明の書状を送った(九五号文書・九六号文書解題参照)。なお、「中川氏年譜」(『中川史料集』所収)によれば、秀成はこれに先んじて一一日に小林新介(助)ら三名を釈明の使者として家康のもとに送っている。そして、こうした弁明の行動に加え秀成は、大坂方(西軍)の太田一吉の拠る臼杵城(現、大分県臼杵市)を攻め、もって身の潔白を証明せんとした。本状はそれに当たって麾下の将兵に示されたものと考えられる。
 なお、「中川氏年譜」によれば、秀成が実際に臼杵攻めに出陣したのは九月二八日で、自ら本隊を率いて臼杵城にとりかかっている。また、今津留(現、大分市内)にいた船奉行の柴山勘兵衛は、別隊を率いて臼杵に向かい、途中の佐賀関(現、大分県北海部郡佐賀関町)で太田軍と激しい戦闘の末、多大な被害を被りつつもこれをうち破った。そしてこの時の勘兵衛軍の戦死者の中に、大友吉統の投降後、遁走して彼のもとに出頭した田原紹忍がいたという。
 こうした軍功や諸方への弁明の努力が実ったか、家康の秀成への嫌疑は晴れ、中川氏は関ヶ原合戦後本領の安堵を受けることが出来たのである。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)