九八 慶長六年四月十六日 知行目録

 慶長六年(一六〇一)四月一六日付けで、中川秀成に豊後のうち六万六千石を安堵した知行目録(の写し)。
 四人の署名者のうち、片桐且元は豊臣秀吉の旧臣で息子秀頼の家老、残る彦坂元正・大久保長成(安)・加藤正次はいずれも徳川家康の奉行人である。これと似た例として、同年五月二三日に飯田宅次に替地を申し渡した文書には、この四人に加えてやはり秀吉旧臣で秀頼家老の小出秀政の名が見える(『大阪城天守閣所蔵文書』)。
 これらから、関ヶ原合戦の直後、かつての豊臣五奉行制にかわる新体制をつくるにあたり、家康が豊臣家を尊重し、豊臣・徳川混合の奉行制を構想していたことがわかる。ただし、最末には、家康の意向を受けた「(家康の)御朱印状は後日申し請けて進上する」という文言が記され、すでに片桐は家康の配下に組み込まれていたことを示している。
 知行高の六万六千石は、秀成が文禄二年(一五九三)、豊後への国替にあたって秀吉から与えられた朱印状(六二号文書)と同一であるが、郡別に見てみると、前者が直入郡内二万九千三八石、大野郡内三万六千九六二石であったのに対し、後者では、直入郡内二万八千九六七石余、大野郡内三万六千六七八石余とこの両郡では減少し、代わって前者になかった大分郡今鶴村・荻原村三四三石余(「地震くづれ」を除く)が加わっている。
 これについては、本文書を詳細に検討すると、@直入郡内の「柏原郷」・「松本郷」の石高が、秀吉から秀成の与力に附属されていた田原紹忍に与えられていた「柏原名」・「松本名内」の知行高(六〇号文書参照)に一致する、A同じく「葎原郷」の石高が、同様に与力であった宗像掃部に与えられていた同郷内での知行高に一致すると見られる(宗像掃部の知行高については「中川氏年譜」(『中川史料集』所収)を参照)、B大分郡今鶴村は、文禄三年に秀吉から秀成に代官として預けられた地であり、石高も「地震くづれ」を合わせればほぼ一致する(七一号文書参照)ことがわかる。
 以上から、家康は、関ヶ原合戦の戦後処理の一環として、大友吉統の豊後侵攻とその後の秀成による臼杵太田氏攻め(九五〜九七号文書解題参照)で戦死した田原紹忍・宗像掃部の知行地を秀成の所領に組み込むとともに、秀成の代官としての預かり地ではあったが、中川氏領を貫流する大分川・大野川の河口に位置する重要な船着場で、中川氏にとっては年貢積出港として不可欠の存在であった今鶴村を正式に所領として認め、以上の増加分を直入郡・大野郡内で調整したということになろう。但し、秀成にとっては上の両者ともに事実上自領であったと思われるところであり、本知行目録に見える処置は、事実上減封に近いものであったかも知れない。
 なお、大分郡今鶴村・荻原村に見える「地震くづれ」とは、文禄五年閏七月一二日の大地震を指す。この地震で、七一号文書の時点で見えた今鶴村の「船着」は海没、慶長二年冬に今津留浦に移ったという(「中川氏年譜」)。今鶴村では「地震くづれ」の石高が四分の三以上となっており、地震の被害の大きさが偲ばれる。荻原村はこの分を補うために加えられたのだろう。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)