九九 (慶長六年)九月六日 岡江雪・山岡景友連署状写

 慶長六年(一六〇一)九月六日付で、岡江雪・山岡景友から池田輝政へ宛てられた書状の写し。関ヶ原合戦後の中川秀成の処遇に関するもの。
 秀成のことについて「上件の条々」を残らず(家康に)申し上げたところ、「支えたる仁」、すなわちそれに口を挟む者がいたが、秀成の忠節が認められ、このように安堵された。太田一吉などは申し立てが聞き届けられず、即時に知行を召し上げられた。また、「支えたる仁」も遠国に移された、この上は、家康様のお心にお変わりはないと自分たちより申し渡せとのご命令である、と記す。
 岡江雪・山岡景友は、先の会津上杉景勝討伐のおりには家康の御馬前の供奉をつとめ、七月二五日に全軍の諸将を集めたいわゆる「小山の評定」では、家康の命をうけて豊臣系諸将に対する上方情勢の説明役となるなど、特に家康の信頼の厚い者たちである。また、池田輝政は、豊臣系諸将中の勇の一人で、関ヶ原合戦においては東軍徳川方の先鋒を勤め、その殊勲によって三河吉田一五万二千石から播磨一国の太守となった人物であるが、その正室は中川清秀の娘で、よって中川秀成とは義兄弟にあたる。このため、秀成は、慶長四年に在大坂の大老・奉行衆が秀吉の遺命に反したかどで家康を糾問する事件のあった際には、輝政を通じて家康に無二の忠誠を誓い、また翌五年二月にも家康・秀忠親子に忠誠を誓う起請文を輝政と家康の重臣榊原康政あてに出すなど(「中川氏年譜」(『中川史料集』所収))、輝政を家康との間の「取次」と頼んでいた。
 すなわち、秀成が自己の処遇について輝政に家康への取りなしを依頼し、それを受けた輝政が家康側近の岡・山岡に工作。二人は首尾よく家康から安堵の了承を得ることに成功し、輝政にそれを伝えてきたのが本状である、ということになろう。なお、文中の「上件の条々」は、過去の秀成の家康に対する忠誠を示す事実を列挙したものと思われ、秀成が必死に家康の安堵を受けようと努力している様子がひしひしと伝わってくる。
 秀成がこうした対応をとらねばならなかったことについては、関ヶ原合戦の折り、大坂方(西軍)と結んで豊後の旧主大友吉統が挙兵した際、与力の田原紹忍・宗像掃部(吉統旧臣)がこれに合流、中川氏の旗指物を偽作して秀成が吉統に同心したとの流言を流したため、その去就に嫌疑をかけられたことが大きい。秀成は身の潔白を証明するため、家康をはじめ、周辺の徳川方の諸将に弁明を行うとともに、大坂方(西軍)の臼杵城(現、大分県臼杵市)を攻めたりしている(九五〜九七号文書解題参照)。なお、この臼杵城の守将であったのが、書状中に名の見える太田一吉で、太田は秀成とあとを受けた豊前中津(現、大分県中津市)の黒田孝高(如水)の攻撃を受けて退城していた。九八号文書の知行目録は、秀成が徳川方であったことが一応認定されたことを示すものであろうが、しかしまだ彼の立場に疑いをはさむ者がおり、秀成としても身を守るためにさらなる運動が必要であったようである。
 その、秀成を讒言し、遠国に移された「支えたる仁」とは何者であったかは残念ながら確定できない。関ヶ原合戦後の大名の処遇の決定をめぐる興味深い史料。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)