七六 (慶長二年)八月廿六日 宇喜多秀家他二七名連署状写

 秀吉の第二次朝鮮侵略(慶長の役)中、慶長二年(一五九七)八月二六日付けで、在陣の諸大名二八人が連署して、肥前名護屋城の秀吉に差し出した文書の写。
 この年二月、秀吉から出陣の陣立書と軍令状(七四号文書解題参照)を受け取った諸大名は、それ以前に渡海していた先陣を除いて五・六月頃に相次いで渡海。七月の慶尚南道巨済島沖の漆川梁海戦で、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明の水軍が元均指揮下の朝鮮水軍を撃破し、朝鮮半島南部の慶尚道から全羅道に至る制海権を掌握すると、秀吉軍の内陸部における進撃は勢いを増した。
 秀吉軍はこれを左右に分かつと、宇喜多秀家を総大将とし、島津義弘・小西行長らの率いる左軍は、全羅道南原城を攻めて八月一五日にこれを陥落させ、一九日には全羅道の首都・全州に入った。一方毛利秀元を総大将とし、加藤清正・黒田長政などに率いられた右軍は、八月中旬に慶尚道黄石山城を落としたのち、やはり全州へと侵入する。本状は、第一条に「全州城に明軍が立て籠もっているということなので、攻撃を加えたところ、早々に城を開いて退却した。そこで左右が会合を持ち、以後の作戦について協議し、大略を決めた」とあるように、こうして全羅道・全州で合流した左右両軍の大名たちが、以後の作戦について申し合わせ、秀吉にその旨を報告したものである。
 軍勢を左・中・右の三手に分けて青国(京幾道と忠清道)に進撃し、その後加藤清正・黒田長政軍に毛利秀元の軍勢から二百(万か)を加えた三万五千人は、青国から白国(慶尚道)に入って加藤と黒田の城の普請を行うとともに、当地の立毛(収穫前の米麦)の刈り取りを行う。そしてそこから戻る途上で所々に攻撃を加える。なお、城の普請には小早川秀秋と浅野幸長の配下の者が加わる。また、残りの七万八千七百人は赤国(全羅道)へ戻り、まだ侵攻に成功していない郡が数多くあるので、国中残すところ無く海陸ともに根絶やしにしつつ進撃する。一方、船手(水軍)七千余人は全州から後退し、赤国の海岸部に進撃する。赤国では手間が明き次第、各自見計らって「御仕置の城」の普請を申しつける。以上が申し合わせの内容である。
 ここから秀吉軍が、攻勢にあったこの時点でも、都・漢城を越えて遠く平壌や咸鏡道まで侵攻した第一次朝鮮侵略(文禄の役)とは異なり、作戦展開を南の四道、すなわち全羅道・慶尚道・京幾道・忠清道内に留め、この四道の領域的支配をめざすことに主眼を置いていたことがわかる。すなわち、第二次朝鮮侵略(慶長の役)は、第一次とはちがって、明征服でなく、明との講和交渉で秀吉が要求した四道割譲(七四号文書解題参照)を武力で達成することを目指すものであったのである。そして、その拠点となったのが、全羅道や慶尚道に普請が企てられた、加藤と黒田の城を含む「御仕置の城」である。「御仕置の城」とは、「つなぎの城」、すなわち連絡・補給路確保のための城とは異なって、周辺地域の仕置=取り締まり、采配のために造られた城、という意味であろう。現在、朝鮮半島南東部、特に韓国・釜山広域市周辺に「倭城」と呼ばれる朝鮮の役中秀吉軍が築いた城郭の遺跡が数多く残っているが、実はこの「倭城」の大半が「御仕置の城」として築造されたものである。「倭城」を見る限り、それは、港湾を取り込んで巨大かつ堅固に造られた、半永久的な使用を前提とした城であったことが遺跡からも確認出来、まさに周辺地域の「御仕置」にふさわしい城塞であった。
 なお、秀吉が本状に接していかなる指示を諸大名に与えたかは定かでないが、以後、秀吉軍は概ねここでの作戦にそって行動したようである。また、本状で計画されている、加藤清正と黒田長政の城の普請(土木工事)とは、あるいは慶長の役の当初在陣した城の改修かもしれないが、もし新たな普請であれば、それぞれ蔚山城・梁山城(ともに慶尚道)にあたるかも知れない(蔚山城は毛利秀元の部将・宍戸元続と浅野幸長が普請に参与し、梁山城は小早川秀秋と毛利秀元の部兵が普請にあたっている)。このうち蔚山城は、その普請の半ばの慶長二年一二月、明・朝鮮連合の大軍に包囲され、加藤・浅野以下の将兵が半月にも及ぶ籠城戦を余儀なくされたことでよく知られている。そして、翌年一月の救援軍の来援によって加藤らは九死に一生を得ることとなるが、この籠城戦以降、在朝鮮の諸大名の間に戦線縮小・撤退の志向が顕著となり、秀吉との軋轢が生まれるようになるのである。



解題作成:神戸大学文学部日本史研究室(デジタル化:神戸大学附属図書館)